「物なし事件」とは?

はじめに
薬物事犯に関する報道を見ていると、ときおり「覚醒剤様(よう)のものを譲り受けた」とか「大麻様(よう)のものを譲り受けた」といった記事を目にすることがある。
「覚醒剤様」とか「大麻様」とは、実は直接的な証拠物である覚醒剤や大麻が、すでに使用されたり、処分されたりしていて存在しないので、そうだと確認できないという意味であり、このような事件は「物なし事件」と呼ばれている。たとえば「Aに大麻を売った」といった密売人の証言から判断されて、Aが大麻を譲り受けたとされるのであるが、問題のその大麻はすでに存在せず、それが本当に違法薬物であったのかどうかを、もはや事実的に確認しようがない事件なのである。そしてこのようなケースに適用される罰条が、〈薬物犯罪を犯す意思をもって、何らかの物品を規制薬物として〉譲り受けたりした者を処罰する麻薬特例法第8条2項なのである。
ところで、現在の世界的な薬物規制体制は、1961年の麻薬単一条約、1971年の向精神薬条約、そして1988年の不正取引防止条約を中心に構築されている。単一条約と向精神薬条約は、違法薬物そのものをターゲットとする条約であるが、不正取引防止条約は薬物の不正取引から生じる不正な利益の剥奪を目的とするものであり、条約の性格が異なる。
そして、麻薬特例法は、直接にはわが国が1988年の不正取引防止条約に加盟したことをきっかけとして、国内法を整備する必要性から制定された法律である。そこで、同法を理解するに当たって、まず簡単に20世紀以降の世界的な薬物規制の歩みをふり返っておきたい。
Ⅰ. 世界の薬物規制体制
1.国連以前の世界的な薬物規制体制
第二次世界大戦後に国際連合(国連)が結成される以前の国際的な薬物規制体制は、薬物取引を規制するために作られた多くの条約で構成されていた。
史上初の国際協定である1912年のハーグ・アヘン条約は、アヘンとコカの国際取引を規制するためのものだった。1925年に採択された第1号条約と1931年に採択された第2号条約は、先のハーグ・アヘン条約を補完するものであった。第1号条約は、大麻を国際規制対象物質に追加し、第2号条約は、アヘン、大麻、コカの医療用使用に関する生産、輸出入規則を定めた。しかし、危険薬物の不正取引の防止に関するジュネーブ条約が、不正薬物の生産と取引に関する初の国際犯罪を定めたのは1936年のことである。当時、世界の大国は、どの物質を禁止法に含めるかについて交渉に入ったが、この交渉の結果、最終的にタバコとアルコールはリストから除外された。両物質とも依存症につながるが、交渉していた植民地大国にとっては文化的・社会的に重要な物質であったため、違法薬物取締制度の対象外とされたのである。
2.国連以後の世界的な薬物統制体制
第二次世界大戦後、1946年から国連が国際薬物統制を主導する立場となり、旧来の国際連盟の役割を継承した。
この時期、多くの新しい合成薬物(メタドン、ペチジンなど)が登場し、戦時中の医療用途やその後の民間需要の拡大により、国際的な取引に対して多国間の監視が急務となった。1948年の合成麻薬議定書は、既存の条約を複雑化させずに新薬を国際管理下に置くために制定され、1954年までに20の新薬物が対象となった。
1953年のアヘン議定書(1953 Opium Protocol)は、アヘンの生産・使用を医療・科学目的に限定し、国による栽培地の指定、ライセンス制、収穫物の国への引き渡し義務、国家独占の流通・貯蔵・加工など、極めて厳格な統制体制を規定した。監督機関としての常設中央アヘン委員会(国際麻薬統制委員会=INCBの前身) は、現地調査や禁輸の提案権限を持ち、備蓄管理を通じて過剰生産の排除を目指した。
1961年の麻薬単一条約は、9件に分散していた既存条約の重複・矛盾を是正し、薬物規制の国際的枠組みを統一する、文字通りの単一条約であり、1964年に発効した。ほとんどの国が加盟し、国際薬物規制の中核を担う条約となっている。条約の目的は、①既存の条約の統合、②国際統制機構の簡素化、③規制の強化と拡大である。条文は全51ヵ条から成り、医療・科学目的以外の薬物の生産・取引・所持を禁止し、推計・統計報告制度、輸出入許可制度、それに薬物を医療的価値と乱用リスクから分類するスケジュール制(4段階)などを取り入れた。
また、同条約は違法薬物流通に厳しい姿勢を示す一方で、国内的な柔軟性も持たせており、流通目的の所持に対しては刑事罰を義務づけるが、個人使用目的の所持には(前科のつかない)行政罰などの代替措置を認めている。加えて、薬物依存症患者の治療・リハビリの提供義務も初めて国際条約に盛り込んだ。植物由来薬物(アヘン、コカ、大麻)の栽培に関しても厳しい管理体制を規定しており、栽培地の指定や、国による購入・流通独占が義務づけられた。
1972年には同条約の改正議定書が採択され、条約第38条の対象が「薬物依存症の治療」から「薬物乱用対策」へと拡大された。加盟国は、薬物乱用の防止、早期発見、社会復帰支援も義務とされ、違反した依存症者に対する投獄以外の処分(治療、教育、リハビリ)も許可された。また、合法アヘン生産国には、ケシ栽培地と生産量の報告義務が課され、義務を果たさない国には生産割当量の削減という経済的制裁が可能となった。
この時期、1960年代後半の薬物乱用(とくにアメリカ国内やベトナム戦争に伴うヘロイン問題)は世界的に深刻化し、ニクソン政権は「薬物戦争」(War on Drugs)を宣言した。供給面への対策と並行して、国際的には依存症対策や予防教育、代替開発支援など、包括的な対策が模索されるようになる。
1971年には向精神薬に関する条約が制定され、アンフェタミン系覚醒剤、幻覚剤、鎮静催眠薬、抗不安薬、抗うつ薬などが対象となった。スケジュールⅠ(MDMAなど)は科学目的を除いて使用が禁止され、スケジュールⅡ(アンフェタミンなど)は厳格な管理下で使用可能であり、スケジュールⅢ・Ⅳの物質は比較的緩やかな規制とされた。
同条約は、広告禁止、医療処方の必須化、ライセンス制、製造・輸出入量の詳細な報告義務などを定めた。さらに、国際麻薬統制委員会(INCB)には違反国への制裁措置(医薬品の輸出入停止の勧告)権限も与えられた。
1981年、薬物乱用の急増を背景に、国際連合は「国際薬物乱用防止戦略」を採択。薬物の合法・非合法供給の管理、違法な需要の抑制、薬物依存者の治療と社会復帰を柱とした統合的アプローチが打ち出された。また、発展途上国には作物代替支援、教育普及、取締強化などの支援を行う体制の構築が進められた。
1984年の国連総会では「薬物取引および薬物乱用防止宣言」が採択され、薬物問題が経済・社会の発展を妨げる深刻な脅威であると明言された。すべての国家にとって根絶が共同責任であることが確認され、代替経済プログラムの実施も提唱された。
1987年、ウィーンで開催された国際会議では、「包括的学際的概要(Comprehensive Multidisciplinary Outline)」が策定され、供給管理と需要削減のバランス、教育、職場対策、社会復帰、有益な農作物への転換、HIVおよび肝炎対策、前駆体化学物質規制、マネーロンダリングの監視などを含む35の行動目標が掲げられた。この概要は1988年の不正取引防止条約第14条でも参照されており、各国の薬物対策の包括的指針となった。また、この会議に基づき、毎年6月26日が「国際麻薬乱用・不正取引防止デー」として制定され、1988年の不正取引防止条約の採択につながったのである。
3.不正取引防止条約の採択―マネーロンダリングへの対応―
マネーロンダリングとは、違法に得られた資金を合法的に見せかける行為であり、プレースメント(placement=現金を金融システムに流入)、レイヤリング(layering=追跡を困難にするため複雑な金融取引で資金を分散して出所を隠す)、インテグレーション(integration=合法事業に投資し、正当な収益として表面化、合法的外観を装う)という三段階で進行する。麻薬密売組織はその資金を用いて汚職を行ったり、法制度を歪める力を持つため、こうした資金の流れを断ち切ることが国際社会にとって喫緊の課題となっている。
薬物の押収は、たとえ量として大量であっても、麻薬密売業者にとっては限定的な損失でしかなく、出荷量を増やすことですぐに補填することが可能である。たとえば国内で違法薬物がかりに100kg押収されたからといって、同種薬物の国内総流通量が100kg減るわけではない。しかし、犯罪者の資産や財産を没収すれば、彼らの組織力や物流維持能力を弱体化させ、彼らの権力基盤を崩すことができる。また、主要な犯罪組織が細分化されているため、押収された薬物と薬物密売の真の首謀者との関連を立証することは通常不可能である。首謀者につながる唯一の手がかりは、資金であることが多い。そして、犯罪組織や彼らが展開する密売事業を壊滅させるには、これが唯一の手段であることが多い。
薬物の密売は利益を生み、その利益はさらに密売を拡大するために使われるという悪循環を生み出す。組織犯罪による資金との戦いは、この悪循環を断ち切ることを可能にする。
1988年の国連麻薬及び向精神薬不正取引条約は、このような考えからマネーロンダリングを重大犯罪として規定し、締約国に対して同犯罪の刑罰化、捜査協力、銀行記録の開示、収益の没収といった措置を義務づけた。また、銀行の守秘義務を盾に捜査を妨害することも禁じている。この条約は、麻薬収益の追跡・没収の国際協力体制を強化し、基本的な枠組みの基盤を築いた。
同条約は、「麻薬及び向精神薬の不正な生産、需要及び取引が大量であり、かつ、増加の傾向にあることが、人類の健康及び福祉に対し重大な脅威となり並びに杜会の経済的、文化的及び政治的基盤に悪影響を及ぽすことを深く憂慮し、(中略)不正取引を行う者からその犯罪活動による収益を剥奪し、これにより不正取引を行う主要な動機を無くすことを決意し」(同条約前文、外務省訳)たのである。
また同条約は、組織犯罪との結びつき、特に中南米の麻薬カルテルによる暴力・汚職・国家機能の破壊に対応すべく、マネーロンダリングの犯罪化、財産の凍結・没収、国際協力の強化、引き渡し手続き、前駆体化学物質の監視・規制、薬物輸送経路の監視といった新たな枠組みを整備した。
さらに、1989年にはG7とEC委員長によって「金融活動作業部会(FATF)」が設立され、1990年に40の勧告を発表。これによりマネーロンダリング対策の国際的ガイドラインが形成され、多くの国がそれぞれの国内法の整備を進めた。FATFは加盟国に対して自己評価や相互評価を通じて対策の履行を監視し、必要に応じて助言・是正を行っている。
地域レベルでは欧州評議会やEC理事会も独自の法的枠組みを整備し、マネーロンダリング対策指令を採択。関税協力理事会(世界税関機構)やインターポールなどの法執行機関も、実務面での研修や情報共有の促進に貢献している。国連も、国連薬物犯罪事務所(UNDCP)を通じて、モデル法の策定や法整備の支援、啓発活動を進めている。
1995年までに119カ国が1988年条約に加盟し、多くの国がFATFの勧告を採用した。また、疑わしい取引の通報制度、専門機関の設立、収益の分配協定などを導入した国もある。さらに、銀行の秘密保持伝統の強い地域(スイス、モナコなど)でも法整備が進み、安全な逃避先とは見なされなくなっている。
ただし、マネーロンダリングの手法はますます巧妙化しており、特に法整備が遅れていたり金融規制が緩い国が狙われやすい。鎖は最も弱い環の強度にしか耐えられない、という言葉に象徴されるように、一国の不備が国際体制全体の脆弱性を招く。マネーロンダリングの根絶には、法、金融、執行の三分野を統合したグローバルな対応と、あらゆる国が参加する制度的連携が求められているのである。わが国で麻薬特例法が制定されたのも、このような国際的な要請に応えるためである。
Ⅱ. 麻薬特例法の制定
不正取引防止条約の要請を受けて、同条約の趣旨を実現するための国内法として制定されたのが麻薬特例法である。政府は国際的な背景を踏まえ、「国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図るための麻薬及び向精神薬取締法等の特例等に関する法律案」を国会に提出し、同法案は1991年10月5日に法律第94号として成立、公布され、1992年7月1日に施行された。
1.麻薬特例法の主な内容
麻薬特例法は、以下のような5つの柱からなる。
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薬物犯罪収益の規制:薬物犯罪による収益の没収・追徴を可能にした。
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マネーロンダリング対策:薬物犯罪収益の隠匿や収受などを処罰対象とした。
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国際捜査共助の強化:外国からの薬物犯罪に関する捜査共助要請に応じることができるようにした。
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コントロールド・デリバリーの導入:薬物捜査において、泳がせ捜査(コントロールド・デリバリー)を一定の条件下で合法的に行うことができるようにした。
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薬物犯罪を助長する行為の処罰:薬物犯罪のあおりや唆しを処罰対象とした。
このように、麻薬特例法は、国際的な薬物犯罪の深刻化とそれに対する国際的な協力の必要性を背景に、日本における薬物対策を強化するために制定された法律である。この法律によって、薬物犯罪収益の剥奪、マネーロンダリングの防止、国際的な捜査協力の推進などが図られることになった。
2.コントロールド・デリバリーという捜査手法
コントロールド・デリバリーとは、犯罪組織が国際的規模で行なう禁制品(規制薬物や銃器など)の取引に対抗するためのもので、捜査機関や税関が禁制品を発見してもその場ですぐに摘発するのではなく、十分な監視の下にその搬送を許して、受け取り先などの関係する被疑者にその物を到達させて犯罪に関与する人物を特定・検挙する捜査手法のことであり、麻薬特例法によって限定的に認められた。「監視付き移転」とか「泳がせ捜査」といわれることもある。なお現在は、麻薬特例法と銃器犯罪を対象とした銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)で限定的に認められている。
コントロールド・デリバリーの手法には2種類ある。(1)禁制品をそのまま搬送させるライブ・コントロールド・デリバリーと、(2)万一の場合を考えてあらかじめ禁制品を抜き取り、砂糖や小麦粉などの代替物を入れて搬送させるクリーン・コントロールド・デリバリーである。とくに問題となるのは後者である。
クリーン・コントロールド・デリバリーを実施する場合、規制薬物は捜査機関の手によってまったく無害な物(砂糖や小麦粉など)とすり替えられ、被疑者がそれを受け取る。従来の法理論ではこのような場合に犯罪の成立を認め、容疑者を逮捕することは理論的に困難だった。なぜなら、その場合「規制薬物(実は砂糖や小麦粉など)」を受け取った者は、客観的には通常の配達過程とまったく変わらない状況で「合法な荷物」を受け取ったことになるからである。
刑法の不能犯に関する議論から考えれば、たとえば「行為者がピストルに弾丸が装填されていると思って、殺意をもって引き金を引く場合」(空ピストル事案)では、一般人の観点から行為の客観的な危険性を判断する具体的危険説に立つならば、生命に対する危険性は肯定され、(殺意をもって生命に危険な行為に着手したという意味で)殺人未遂罪としての処罰が可能である。しかし、クリーン・コントロールドデリバリーの場合、客観的には通常の荷物の配達と変わりがなく、客観的な危険性を認定することは難しい。また、物の譲り受けや交付を受ける罪については、そもそも未遂犯処罰規定が存在しないので、いずれにせよ無罪とせざるをえない。そこで、特別な処罰規定を麻薬特例法の中に設けて、国際犯罪組織が規制薬物の不法輸入等を「業として」行った者が(同法第5条)、客観的には規制薬物でない物(砂糖や小麦粉など)を、薬物犯罪を犯す意思で、規制薬物として譲り受けたりすれば、処罰するできるようにしたのである(同法第8条)。
麻薬特例法第5条(業として行う不法輸入等)
次に掲げる行為を業とした者(これらの行為と第8条の罪に当たる行為を併せてすることを業とした者を含む。)は、無期又は5年以上の拘禁刑及び1000万円以下の罰金に処する。
一 麻薬及び向精神薬取締法第64条、第64条の2(所持に係る部分を除く。)、第65条、第66条(所持に係る部分を除く。)、第66条の3又は第66条の4(所持に係る部分を除く。)の罪に当たる行為をすること。
二 大麻取締法第24条又は第24条の2(所持に係る部分を除く。)の罪に当たる行為をすること。
三 あへん法第51条又は第52条(所持に係る部分を除く。)の罪に当たる行為をすること。
四 覚醒剤取締法第41条又は第41条の2(所持に係る部分を除く。)の罪に当たる行為をすること。
麻薬特例法第8条(規制薬物としての物品の輸入等)
1項 薬物犯罪(略)を犯す意思をもって、規制薬物として交付を受け、又は取得した薬物その他の物品を輸入し、又は輸出した者は、3年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処する。
2項 薬物犯罪(略)を犯す意思をもって、薬物その他の物品を規制薬物として譲り渡し、若しくは譲り受け、又は規制薬物として交付を受け、若くは取得した薬物その他の物品を所持した者は、2年以下の拘禁刑又は30万円以下の罰金に処する。
つまり第8条は、第5条の薬物の不法輸入等を「業として」行った場合の処罰規定と一体となったものであり、かりに時間が経って現物がもはや存在せず鑑定ができないような場合でも、国際的犯罪組織がそれによって得た不法収益等について没収することを可能とするためなのである。
この点は、次の吉松悟(東京地検検事)の解説にも明らかである。すなわち、「この規定(筆者注:改正前の第11条で、現行の第8条)は、直接には、クリーン・コントロールド・デリバリーに関する規定を国内的に実施するために設けられたものであるが(解説51頁)、それと同時に、第8条(筆者注:現行の第5条)の立件に当たり、 日時の経過等によって薬物性の立証ができなくなった規制薬物の譲渡行為等を訴因に含めることにより、不法収益の没収・追徴の範囲を拡大することを可能とする機能があり、第8条(筆者注:現行の第5条)違反の事案については、積極的に第11条(筆者注:現行の第8条)を活用すべきである」(吉松・後掲106頁)。
ただし、吉松はさらに続けて、このような解釈・運用が拡大することについては警鐘を鳴らしている。「第11条(筆者注:現行の第8条)は、第8条(筆者注:現行の第5条)違反の事案だけでなく、第11条(筆者注:現行の第8条)単独の適用を排除するものではないと解される。しかし、第11条(筆者注:現行の第8条)の規定を、第8条(筆者注:現行の第5条)と切り離して、いわゆる物なし事件一般にまで無制約に拡大して適用する場合には、この種事犯の捜査がずさんとなるおそれがあるので妥当ではなく、警察に対しては、単なる供述のみで第11条(筆者注:現行の第8条)の適用が可能となるかのような安易な認識を与えることなく、折りに触れて、同条の立法趣旨や同条による立件の際の留意点等について指導する必要があろう」(吉松・後掲106頁)と、これが証拠物の存在しない「物なし事件」に無制約に拡大適用すべきではないとしている(太字は筆者)(なお、中川清明(藤永幸治編『薬物犯罪(シリーズ操作実務全書8)』)(1995年)262頁以下も同旨)。
3.物なし事件
「物なし事件」とは、麻薬や覚醒剤などの違法薬物が押収されないまま起訴・有罪とされた事件を指す俗称である。つまり、物的証拠(=薬物)が存在しないのに、自白や捜査機関の供述や証言などの情況証拠を根拠として刑事手続が進行する事件をいう。
上記のように拡大適用に対する危惧にもかかわらず、実務ではかなり前から第8条2項が規制薬物でない物を規制薬物との認識で譲り受けたりすることを要件としていることから、規制薬物であることが証明できないような場合も文言上は含まれ、一般の事件への適用を排除するものではないと解釈され、無制限な拡大適用がなされている。
通常の薬物事件では、現場で押収された薬物(証拠品)があり、それが化学鑑定によって成分分析され、それらにもとづいて捜査報告者や証拠書類などが作成される。
それに対して「物なし事件」では、薬物が捨てられたとか、消費されたなどの理由で存在せず、つまり化学鑑定が不可能であるにもかかわらず、捜査機関への参考人の供述や被告人の自白などで、検挙、起訴され、有罪が認定されるのである。
もちろん容疑者の交友関係、動機、携帯電話の通話履歴やメモ、行為時の客観的な状況など、十分な情況的証拠があれば有罪の立証は不可能ではないが、関係者の供述だけで有罪の推定に流れないよう、十分な注意が必要であることはいうまでもないことである。「物なし事件」では被疑者被告人の自白が決定的な比重をもっているため、取調べの強制や誘導がなされる危険性が高く、えん罪のリスクもまた大きいといわざるをえない。なぜなら、証拠物による事実の検証がそもそも不可能だからである。
4.麻薬特例法の附帯決議について
麻薬特例法第8条は、あくまでも国際的規模の薬物不正取引に対抗するための特別規定である。同条違反についての法定刑が低く抑えられているのも、同条があくまでも例外的な規定であることをうかがわせるものである(第1項は、3年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金、第2項は、2年以下の拘禁刑又は30万円以下の罰金)。
しかも、証拠物(薬物)がなくとも逮捕・処罰が可能となるところから、不当な捜査やずさんな捜査の危険性があり、この点について衆参両議院でも採決にあたって、麻薬特例法は国際的な不正薬物取引に対処するための特別な法律であるから、不当に人権を侵害しないように努めるべきであるとの厳しい付帯決議が採択されている。
麻薬特例法の制定に際しては、衆議院および参議院の両院で以下の附帯決議が全会一致で採択されている(第121回国会 衆議院厚生委員会 第9号 平成3年9月20日)。
麻薬及び向精神薬取締法等の一部を改正する法律案並びに国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図るための麻薬及び向精神薬取締法等の特例等に関する法律案に対する附帯決議
政府は、次の事項につき、適切な措置を講ずるよう努力すべきである。
一 本法は、麻薬及び向精神薬の不正取引等に有効に対処するための国際的責務を遂行する目的で設けられた特別措置である。従って、その運用に当たっては、前記目的に従って厳正に運用し、不当に人権を侵害することのないよう努めること。
二 薬物乱用対策における国際的協力の重要性にかんがみ、諸外国及び国際機関との密接な情報交換を進め、取締りにおける国際協力を積極的に推進すること。
以上であります。
何とぞ委員各位の御賛同をお願いいたします。
発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/112104237X00919910920/200
(太字は筆者)
附帯決議とは、国会において法案や予算案などの議決に際し、その議決内容を補足し、政府や関係機関に対して特定の事項を要望、指示、または留意を求めるために付される決議のことである。これは、法案自体の条文には含まれないものの、いわゆる立法者意思としてその運用や解釈に大きな影響を与える重要な役割を持っている。にもかかわらず実務では、この付帯決議を完全に無視した運用がなされているのである。
麻薬特例法第8条の無制約な拡大適用は、犯罪捜査においてもっとも重要な証拠物がなくとも有罪にできることから、薬物事犯についての捜査がずさんになる危険性があり、上記の付帯決議(立法者意思)にも明らかに反しているのである。
まとめ
麻薬特例法第8条2項は、同法第5条と一体となって、クリーン・コントロールド・デリバリーに関する規定を国内的に実施するために設けられたものである。また、薬物を使い切ったり、日時が経過した等によって薬物性の立証ができなくなったとしても、業として行った者の規制薬物の譲渡行為等については、例外的に第5条に加えて第8条を活用することによって、不法収益の没収・追徴の範囲を拡大することを可能とすることが可能である。ここまでは法の趣旨から考えて、許される解釈・運用だろう。
しかし、第8条を第5条とまったく切り離して、証拠物たる薬物が存在しない典型的な「物なし事件」で、麻薬特例法第5条各号に記載の行為を「業とした者」ではない者に対して同法第8条2項を適用することは、同法の誤った法解釈にもとづく誤った法適用であり、この種事犯の捜査がずさんとなるおそれがあるので妥当ではない。改めるべきである。(了)
【参考文献】
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河原俊也「麻薬特例法の実態規定の解釈をめぐる諸問題」判タ1172号47頁(2005年)
-
吉松悟『麻薬特例法違反事件の捜査・処理上の諸問題』法務研究報告書第87集第2号)1999年)
-
猪瀬愼一郎「麻薬特例法の新犯罪類型について」判タ812号4頁(1993年)
-
藤永幸治編『薬物犯罪(シリーズ捜査実務全書8)』(1995年)
-
古田佑紀『麻薬等特例法』大コンメンタール・薬物五法(1994年)
-
特集2「麻薬新法をめぐって」ジュリスト992号69頁(1991年)(1)樽見英樹「薬物乱用問題に関する国際的取り組みと麻薬二法」ジュリスト992号(1991年)69頁、(2)本田守弘「麻薬新法における犯罪規定」ジュリスト992号77頁、(3)野々上尚「麻薬新法における不法収益等の没収・追徴」ジュリスト992号84頁、(4)三浦守「麻薬新法における没収・追徴に関する保全手続及び国際共助手続の概要」ジュリスト992号90頁
-
Eds. David R. Bewley-Taylor & Khalid Tinasti, Research Handbook on International Drug Policy, 2020
-
David Bewley-Taylor and Martin Jelsma, Regime change:Revisiting the 1961 Single Convention on Narcotic Drugs, 2012
-
United Nations Office on Drugs and Crime(UNODC), A CENTURY OF INTERNATIONAL DRUG CONTROL, 2008
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