みんながすることに従わない者を処罰できるか?

民主主義社会における刑法の役割は、多数派の道徳的偏見や同調圧力を市民に強制することではない。むしろ、他者に危害を加えない限りにおいて、「従わない者(異端者や逸脱者)」の基本的人権と自由な生き方を、抑圧的な圧力から防衛することにある。
園田寿 2026.05.01
誰でも

序論:同調圧力と刑罰権の限界

歴史を振り返れば、社会の支配的な価値観、例えば宗教的戒律、性的規範、あるいは特定の嗜好品や行動の忌避など、それに同調しないことにしばしば「悪徳」のレッテルが貼られ、そして刑事罰の対象とされてきた。しかし、「みんなと同じように振る舞わないこと」を理由に個人の自由を剥奪し、投獄することはできるのだろうか。もしできるとすれば、それはどのような場合なのだろうか。

第1:法的モラリズム

「みんながすること」に従わない者を処罰するべきであるとする考えに最強の理論的支柱を与えたのは、パトリック・デヴリン(Patrick Devlin)の「法的モラリズム(Legal Moralism)」である。

イギリスで1957年に、同性愛や売春の非犯罪化を唱えた「ウルフェンデン報告(Wolfenden Report)(正式名称は「同性愛犯罪および売春に関する調査委員会報告」)が出されたが、デヴリンはこの報告に対して「社会を結合させているのは、共有された道徳という不可視の絆である」と反論した。彼によれば、ある行為が他者に直接的な危害を与えなくとも、それが平均的な市民(「ボックス客車に乗っている普通の人」)に深い嫌悪感や憤りをもたらすのであれば、それは社会の存続を脅かす「公の迷惑」であり、刑事罰をもって阻止すべき対象となる。

しかし、このような論理を認めることは、多数派が自分たちの好悪の感情を道徳的規範にすり替え、少数派に押しつけることにつながり、身体的な暴力以上に恐ろしい「世論の専制」を招くことになる。デヴリンの説く「社会の紐帯」は、しばしば異質な存在を排除することで得られる排他的な一体感に過ぎない。もし「嫌悪感」が処罰の十分な理由になるならば、人種差別や特定の宗教への不寛容も、多数派がそれを不快に思うという理由だけで処罰することを正当化することになってしまう。刑法の役割は、単なる感情的な同調を強制することではなく、そのような主観的な専制から個人の尊厳を守ることにこそある

第2:他者危害原則による防波堤と「被害者なき犯罪」

法的モラリズムへの最も強力な反対論は、ミルの「他者危害原則(Harm Principle)」である。これは、文明社会の構成員に対して、その意思に反して権力を行使してよいのは、他者への危害を防ぐという目的がある場合に限られるとする考え方である。そして、重要なことは、この「危害」の定義を厳格に限定し、単なる不快感や道徳的反感、あるいは「社会全体の道徳水準の低下」といった抽象的な要素を「危害」の定義から排除することにある。

このことが特に問題となるのは、当事者間の合意に基づく行為や、個人の私的領域に留まる行為、つまり、明確な「被害者なき犯罪(victimless crime)」の処罰である。そのような行為としては、薬物の自己使用やギャンブル、合意の上での性的行為などが考えられ、それらを処罰することは、法が本来の領域を逸脱し、個人の自律性を不当に侵害することにつながるとされる。

現代では、特にダグラス・ヒューザック(Douglas Husak)が、このような立場から現代社会における「過剰犯罪化(Overcriminalization)」の傾向を痛烈に批判している。彼によれば、国家は「危害」の概念を恣意的に拡大し、多数派のライフスタイルに従わない者たちを犯罪者に仕立て上げている。客観的な被害者が存在しない場所で刑罰を科すことは、刑法を正義の道具から、特定の価値観を強制するための暴力装置へと変質させる行為である。これは、かなり説得的な理論である。

第3:法的パターナリズム批判

法的パターナリズム(Legal Paternalism)とは、「みんながすること」に従わない者がいる場合、本人の保護に(つまり、本人のために)なるなら処罰できるという考え方であるが、このような考え方は自由主義の観点からは厳しく制約される。判断能力のある成人が、リスクを十分に認識した上で自発的に選択した行動に対し、国家が刑罰的に介入することは「強硬なパターナリズム(hard paternalism)」として否定される。

「本人のため」という理由は、しばしば国家権力の無制限な拡大を正当化する隠れ蓑となる。例えば、もし「健康を害するから」という理由で、社会の標準的な生活様式に従わない者を罰することを許容すれば、論理的には、脂っこい食事を好むことや暴飲暴食、過激で危険なスポーツを行うことなどまでもが処罰の対象となり得る。

さらに重要なことは、パターナリズムによる処罰は、国家が「保護」という名目で、対象者を拘束し、前科・前歴を付与し、雇用や就学の機会を奪い、家庭環境を乱し、過酷な刑務所環境へ放り込むという、本人に対する最大級の危害を加えてしまうというパラドックスに陥るのである。真の保護とは、本人の自己決定権を尊重しつつ、危害を最小化するための支援を行うことであり、非同調を理由とした断罪ではないはずである。

第4:構造的暴力とスケープゴート

法的な正当性を欠いているにもかかわらず、なぜ社会は執拗に「多数に従わない者」を罰し続けるのだろうか。

そこには、〈権力維持〉と〈同質性の確認〉という社会学的力学が働いている。特定の行動を「悪徳」や「異常」として定義し、それを行う者を「犯罪者」として排除するプロセスは、多数派が自らの「正常さ」と「道徳的優越性」を確認するという機能を果たしている。

  • 法がコンセンサスの所産、正常性の規格であるなら、犯罪とはその規格からの逸脱、つまり異常である。それは正常性の体系を裏面から反映したものであり、正常性の体系を揺さぶるものである。そして、なによりも均質であることに最大の価値を認める社会にあっては、犯罪を異常と断定することこそ重要であり、異常と断定されたものに対する排外のシステムが作動しなければならない。処罰という行為が社会の支持をうるためには、刑罰の対象が単に形式的に犯罪であることでは不十分なのであって、社会の構成員、とくにマスコミによって「犯罪」という言葉に相応しい醜悪なイメージが要求されるのである。

社会の支配的価値への非同調に対する処罰は、歴史的に見れば、特定のマイノリティを抑圧するための「代理犯罪(Proxy crime)」として機能してきた側面が強い(Husak)。例えばアメリカにおける「薬物戦争」は、実質的には黒人層を合法的に監視・排除し、市民権を剥奪するための構造的暴力であった。多数派が「みんながすること」と定義する基準(例えば白人中産階級の規範)に従わない行為を選別的に厳罰化することで、社会構造上の格差を固定化し、不都合な集団をスケープゴートとして社会の底辺に留め置くのである。

第5:「みんながしているから」という抗弁

しかし、ひるがえって考えれば、かりに「みんながすることに従わない」ことが処罰の理由になるのであれば、逆に「みんながしていること」に従って違法行為を行った場合(悪しき同調)、その個人は免責されるべきだということになるのだろうか。

  • 法学部生が最初に学ぶ有名な刑事判例に「一厘(いちりん)事件」がある。これは、農家が栽培した葉煙草を自ら勝手に消費した行為に対する葉煙草専売法違反(不納付罪)の事件である。当時の大審院は、被害額が極端に少ない場合は刑罰を科す前提である可罰的な違法性が認められないとして無罪を言い渡した(大審院明治43年10月11日判決)。その考え方じたいに異論はないが、もしその地方で煙草の葉を勝手に消費する行為が横行していて、被告人だけが一罰百戒の意味で逮捕されたとして、法廷で被告人が「みんなもやっていたのに、自分だけが処罰されるのはおかしい」と抗弁したら何と言うべきだろうか。

あるコミュニティ内で特定の違法行為(例えば薬物使用や万引きなど)が蔓延し、社会の暗黙の理解として「みんながしている」状態になった場合、その環境下でそれに同調した個人だけを選択的に処罰すること、つまり、スケープゴート的に処罰することは、恣意的な法執行となり、免責的な判断が認められる余地はある。

しかし、この抗弁が「絶対的な免責事由」として一般的に機能することは法の支配そのものの崩壊につながるおそれがあり、悪しき同調による無条件の免責は否定されるべきである。他者への具体的な危害や搾取を伴う行為については、「みんながしている(悪しき同調)」という事実は処罰を免れる正当な理由にはならない。国家の刑罰権は、多数派の道徳的偏見や同調圧力の有無を免責の根拠とするのではなく、他者の権利や利益に対する客観的な「危害の発生」という普遍的な基準に基づいて発動されなければならないからである。悪しき同調に基づく違法行為を行った個人は、その同調性を理由に免責されるべきではない。

要するにこの議論は、「みんな」という多数派の基準がいかに不完全で流動的なものであるかを改めて示している。正義の根拠は、多数派の振る舞い(同調)にあるのではなく、その行為が普遍的な権利を侵害しているか否かという一点に集約されなければならないのである。

第6:前向きであればいかなる変化をも評価する

多数派の規範に同調しない者を刑罰によって矯正・排除しようとする試みは、しばしば「ハーム・プロダクション(harm production、害悪の生産)」という壊滅的な副産物を生む。

  • 第一に、被害者が存在しない行為を刑事罰で抑止しようとすれば、警察は私的空間への不当な介入や囮捜査に頼らざるを得なくなり、監視社会化を促進する。

  • 第二に、禁止は、(1920年代のアメリカ禁酒法のように)市場を地下に潜らせるだけであり、結果として禁止した物や機会が反社会的組織の資金源となり、管理不在による健康被害を拡大させる。

  • 第三に、刑罰が与える「犯罪者」という社会的烙印(スティグマ)は、本人から社会復帰の手段を奪い、より深刻な逸脱へと追い込む「二次的逸脱」の連鎖を生み出す。

今日、薬物依存などの非同調的行動の背景には、虐待や貧困などが深く関わっていることが多い。彼らに必要なのは、道徳的な断罪や投獄ではなく、医療的ケアやコミュニティによる包摂である。社会が「みんなに従わない」という一点において彼らを排除し続ける限り、社会全体の安全性と福祉は損なわれ続ける。非同調を「犯罪」として罰するのではなく、その背後にある苦痛に共感し、被害を最小限に抑える「ハームリダクション(harm reduction)」へのパラダイムシフトこそが不可欠である。

ハームリダクション(Harm Reduction)とは、薬物問題に関していえば、薬物使用そのものの根絶(禁欲・断薬)を絶対的な前提条件とせず、薬物使用や薬物統制政策に伴う公衆衛生、社会、法的な悪影響(害)を最小化することを主眼に置いた政策と実践の総称である。このアプローチは、薬物使用が人間の行動として存在し続けた歴史と現実を直視し、使用の停止を支援の前提とはしない考え方である。使用を継続する人びとを社会から排除したり処罰したりするのではなく、彼らの健康と尊厳、ならびに人権を尊重する徹底したプラグマティズム(実用主義)に立脚している。

ハームリダクションがひとつの運動として確立したのは1980年代である。当時、注射薬物使用を通じたHIV/AIDSやC型肝炎の爆発的な感染拡大という公衆衛生の危機に直面したオランダのアムステルダムやイギリスのリバプールにおいて、薬物使用者自身や医療従事者が主導して無菌注射器の提供(針・注射器プログラム:NSP)を開始したことが端緒となった。感染症の蔓延こそが薬物使用自体よりも個人の健康と公衆衛生に対する重大な脅威であるという認識が、ハームリダクションの核心的なテーゼを形成した。

ハームリダクションは従来の「薬物戦争」や絶対的禁止主義(ゼロ・トレランス)とは原理的な緊張関係にある。禁止主義を推進する論者は、ハームリダクションが薬物使用を容認する「誤ったメッセージ」であり、結果的に薬物消費を助長すると批判してきた。しかし、実際にはこれらの介入が薬物使用を増大させるどころか、むしろ厳罰主義的アプローチこそが薬物使用者を周縁化し、スティグマを植え付け、安全な医療へのアクセスを阻害することで害を拡大させてきたのではないか。そのため、現代のハームリダクションは単なる公衆衛生の枠組みを超え、薬物使用や所持の非犯罪化、あるいは貧困やマイノリティへの差別などといった社会的な決定要因に対処する人権および社会正義のための運動へと拡大的に進化している。

要するに、ハームリダクションはゼロか百かではなく、「前向きであればいかなる変化(any positive change)をも評価する」という柔軟な「被害の最小化」を目指す現実主義に基づいている。

その哲学は薬物政策の領域に留まらず、アルコール問題や摂食障害、SNS依存などのテクノロジーへの過剰依存、ギャンブル依存、さらには気候変動対策に至るまで、完全にリスクを排除できない状況下で現実的な被害軽減を図る普遍的なリスク管理パラダイムとして、現代社会に広く応用されている。気候変動対策についていえば、温室効果ガス排出の「完全な即時停止」が経済社会的制約から不可能な現状において、適応策の推進や、激甚化する自然災害に対する回復力の構築は、まさに環境領域におけるハームリダクションといえる。

いずれも理想的な「ゼロ」を追求しつつも、現実的な「被害の最小化」を優先する実利主義である点に共通点があるし、今後もその重要性が増していくことは間違いない。

結論:不合理な同調圧力の超克

「みんながすることに従わない者」を処罰することは、現代の自由主義の観点から決して正当化されるものではない。法的に許容される処罰の根拠は、多数派への非同調ではなく、他者の権利に対する客観的な「危害の発生」でなければならない。

民主主義社会における刑法の役割は、多数派の道徳的偏見や同調圧力を市民に強制することではない。むしろ、他者に危害を加えない限りにおいて、「従わない者(異端者や逸脱者)」の基本的人権と自由な生き方を、抑圧的な圧力から防衛することにある。「みんながしている」ことが常に正義ではないのと同様に、「みんながしないこと」をすることが、それだけで犯罪であるいわれはない。社会の成熟度は、単なる同調を美徳とする前近代的なパターナリズムから脱却し、多様な自己決定を許容し、被害の最小化を目指す「ハームリダクション」の理念を受容できるかどうかにかかっている。(了)

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