ハームリダクションは薬物政策の失敗なのか
1. ハームリダクションとは何か
ハームリダクション(Harm Reduction)とは、薬物使用の完全な停止、すなわち「断薬」を支援・介入の条件とはせず、薬物使用に伴って生じる個人の健康被害、社会的危害、そして経済的損失を段階的かつ現実的に低減させることを最優先課題として掲げる現実的で実践的な公衆衛生アプローチである。
例えば、不衛生な注射器具の回し打ちによるHIVやC型肝炎といった血液媒介感染症を抑止する注射針・注射器プログラムや、さらに公的に管理された安全な監督下での過剰摂取防止センターの設置などが含まれる。
このようなアプローチの根底には、薬物使用当事者を道徳的に非難し刑事司法的に排除するのではなく、生命や健康の保護、ならびに人間としての尊厳の回復を担保し、公衆衛生と人権のセーフティネットへと包摂することにある。つまり、薬物依存を「個人の道徳的退廃や意志薄弱による犯罪」としてではなく「多面的な要因から生じる健康問題」として再定義する点に、その理論的な新しさがある。
ところが日本では、ハームリダクションに対して否定的な評価がなされてきた。
2. ハームリダクションは薬物政策の失敗だとする日本での評価
統計を見れば、日本の違法薬物全体の生涯経験率は1%台前半にとどまり、諸外国が示す数十%規模の経験率と比較して国際的にも際立って低い数値を維持している。取締り当局はこれを、厳格な水際取締り、徹底した刑事訴追、そして「ダメ。ゼッタイ。」に象徴される社会規範の強化が成功した証しであると評価してきた。
ハームリダクション政策に対しては、「厳罰主義的取締りによって薬物の蔓延を阻止することに失敗した結果、やむなく導入された『政策的敗北の産物』あるいは『妥協的弥縫策』にすぎない」としてきたのである。そして厳罰主義が成功している日本でハームリダクションを主張することは、社会規範を弛緩させ、薬物使用を容認・助長する誤った規範的メッセージを社会に広めるものとして頑なに退けられてきたのである。
3. 道徳的厳罰主義じたいの構造的破綻
しかし、ハームリダクションを「薬物政策の失敗」と評価することは、根本的に間違っている。それは、薬物問題を道徳的・懲罰的問題と捉えて推し進めてきた禁止主義・厳罰主義的パラダイム(いわゆる「薬物戦争」〈War on Drugs〉)自体の構造的破綻に対する公衆衛生的な選択なのである。
刑罰による完全な断薬を絶対的命題とした政策は、薬物需要を根本的に根絶することに失敗したばかりか、薬物流通市場を不可視の地下組織へと完全に追いやったのである。その結果、供給物質(薬物)のコントロールがきわめて困難になり、高毒性化・粗悪化が進み、致死的な過剰摂取死が急増した。さらに、刑事司法の訴追を恐れる当事者を医療・福祉から遠ざけ、感染症の蔓延と大量投獄によるスティグマを定着させるという破滅的な帰結を招いたのである。
欧米においてハームリダクション政策が進んでいるのは、この道徳的厳罰主義が引き起こした深刻な人道危機・公衆衛生危機を是正するための合理的な必然であったのである。事実、ハームリダクションの介入は、当事者を刑罰の恐怖から解放して治療・福祉へと接続し、致死率の抑制と感染症防止において実証的成果を上げてきている。
4. 禁圧政策がもたらす地下市場の温存と莫大な不法収益
わが国における刑罰による禁圧政策は、生涯経験率の低水準という表層的成果の裏で、地下経済における莫大な不法収益を発生させ、犯罪組織の資金源を恒常的に支えるという深刻な逆機能をもたらしている。
松井由紀夫による試算モデル[*]に基づけば、国内の潜在的覚醒剤乱用者数は約25万人であり、乱用者1人当たりの年間使用量を約7.2グラム(月間約0.6グラム、年間購入額約29万円)と設定した場合、日本国内の覚醒剤年間消費量は約1.8トン(1,800キログラム)に達する。この消費量を末端価格(1グラム当たり6万円)で換算すると、国内の覚醒剤末端市場規模(乱用者が1年間に支払う総額)は年間約1,080億円という天文学的規模となる。
加えて、国内で活動する末端密売人の総数を約2,000人と仮定した場合、末端密売人1人当たりの年間売上高は約3,800万円、仕入れ価格をその半分と見積もっても1人当たり年間約1,900万円の純利益が発生する。そして、仕入れ元である暴力団の上部組織や元卸・中卸段階には、これらをはるかに上回る巨額の不法収益が上納金や差益として蓄積されている。
[*] 松井由紀夫「薬物犯罪収益対策と薬物密売ビジネスに関する考察」警察学論集第73巻8号(2020年)63頁以下
このように、薬物使用を「道徳的悪」とみなして厳罰を科す方針は、限られた使用当事者を社会的に孤立させ治療アクセスを阻害する一方で、ブラックマーケットの高利得性を温存し、犯罪組織を構造的に肥大化させ続けるという不合理な結果をもたらしているのではないかという疑問が払拭できないのである。
5. むすび
欧米におけるハームリダクションを「取り締まりの失敗による妥協」と断定し、自国の生涯経験率1%台を誇示する日本の取締り当局の態度は、政策の歴史的本質を直視していない。失敗したのは、薬物問題を道徳的善悪に還元し、刑罰と排除によって問題を不可視化しようとした厳罰主義そのものである。
さらに、現代日本の薬物問題における最大の危機は、覚醒剤や大麻といった「違法薬物」ではなく、薬局や医療機関から合法的に供給される市販薬(一般用医薬品)および処方薬の過量服薬(オーバードーズ:OD)である。10代の薬物依存症患者の約7割において主たる乱用物質は市販薬・処方薬であり、その背後には家庭内虐待やネグレクトといった小児期逆境体験などの過酷な苦痛からのがれようとして服薬に及んでいる状況があるといわれ、そこには従来の違法薬物中心の乱用構造の見方では捉えきれない問題がある。
この問題に威嚇や社会的烙印(スティグマ)が不可欠の厳罰主義を持ち込むことは服薬者の自尊心を破壊し、当事者を支援から遠ざけ、さらなる孤立と服薬の悪循環へと追い詰めるのである。
ハームリダクションは、禁止主義の構造的破綻に対する合理的反省から導き出された科学的アプローチであり、個人の生命と尊厳を最前線で守るための不可欠な枠組みである。日本が真に持続可能な薬物政策を構築するためには、表面的な統計への過信と道徳的厳罰主義を脱却し、ハームリダクションを基軸とする公衆衛生・人権モデルへと政策の軸足を転換することが不可避である。(了)
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