刑事立法の「右傾化」とは

目次
はじめに
戦前の「改正刑法仮案」と治安・思想弾圧立法
戦後の「改正刑法草案」における道徳的国家主義への批判
近年の治安刑法の拡大と「テロ等準備罪(共謀罪)」
処罰の早期化と厳罰化・重罰化の潮流
右傾化を支える社会意識と刑事政策の変容
結語
1. はじめに
一般に刑事立法における「右傾化」とは、個人の自由や人権の保障よりも、国家の権威、社会の安全・治安の維持、あるいはマジョリティにおける特定の道徳観・価値観の保護を優先しようとする傾向を指して言われる。具体的には、罪刑法定主義や行為主義、責任主義といった近代刑法の基本原則を制約・相対化してでも、国家の監視・介入を前倒しする処罰範囲の拡大(未遂以前の早期の処罰化や抽象的危険犯の増大)、および厳罰化・重罰化を図ろうとする、国家主義的・権威主義的・治安優先的な立法傾向などがこれに該当する。
日本の刑事立法史を振り返ると、社会不安が高まる時期や国家体制の強化が求められる時期などにおいて、こうした右傾化的な立法や法案が登場し、学界や実務界から激しい批判を浴びてきた。
2. 戦前の「改正刑法仮案」と治安・思想弾圧立法
刑法を国家権力の強化や道徳的統制の手段として再編しようとした典型例が、大正時代から昭和初期にかけて進められた刑法改正作業である。
大正10年(1921年)に政府が臨時法制審議会に対して刑法改正の要否を諮問した際、その理由として「本邦ノ淳風美俗ノ維持」や「忠孝其ノ他ノ道義ニ顧ミ」といった道徳的かつ国家主義的な目的が掲げられた。これを受けて、太平洋戦争直前の昭和15年(1940年)に公にされた「改正刑法仮案」の思想的背景には、当時の官僚的国家主義と市民的社会防衛主義とを折衷した立場があったと評されている。この仮案では、皇室に対する罪、神社に対する罪、尊属に対する罪などの処罰を強化することで国家の権威や伝統的な道徳の保護を図るとともに、「安寧秩序ニ対スル罪」が新設された。また、常習累犯に対する不定期刑や、精神障害者・労働嫌忌者・薬物依存者などに対する保安処分(治療処分や禁絶処分など)の導入、宣告猶予の制度などが盛り込まれ、社会防衛のための強力な刑事政策的な措置の採用が意図された。
この時代、牧野英一らに代表される新派刑法学の一部は、自由法論の影響を受けて法の進化論を主張し、「解釈は無限なり」として類推解釈を許容し、罪刑法定主義の放棄を積極的に評価する権威主義刑法・全体主義刑法を支える理論を展開した。こうした思想は、昭和16年の治安維持法改正による予防拘禁の導入や、戦時刑事特別法による思想弾圧・治安統制を正当化する論理として機能し、戦時体制下の著しい右傾化を法的に担保することとなった。
3. 戦後の「改正刑法草案」における道徳的国家主義への批判
戦後、日本国憲法の制定により刑法典の民主化が図られたものの、その後の全面改正作業においても再び治安維持と社会防衛を優先する右傾化的な傾向が示された。それが昭和49年(1974年)に法制審議会が答申した「改正刑法草案」である。この草案は、刑法を国民にわかりやすくするという名目のもとで起案されたが、その実質的な内容は、精神障害者に対する「治療処分」や薬物依存者に対する「禁絶処分」といった保安処分の導入、常習累犯に対する不定期刑の採用など、新しい社会防衛の制度を導入するものであった。また、各則においては、秘密公文書開封、集団反抗、騒動予備、被保護者の姦淫、企業秘密の漏示など、当時の刑法典にはない広範な処罰規定が新設されようとした。
この草案が公表されると、それはその「道徳的国家観」の刑法思想や応報主義に立脚し、人権よりも治安を優先させるものであり、処罰範囲の拡大化・重罰化をもたらす時代遅れの刑事政策であるとして、学界、日本弁護士連合会、日本精神神経学会など各方面から極めて激しい批判が浴びせられた。特に保安処分の導入に対しては、精神障害者を治安的に管理し人権侵害を招く危険性が高いとして強い反発が生じた。結果として、国家権力による過度な介入を懸念する声に押され、この草案に基づく刑法の全面改正は頓挫することとなった。
4. 近年の治安刑法の拡大と「テロ等準備罪(共謀罪)」
1990年代後半以降、オウム真理教事件に代表される大規模な組織犯罪や、国際的なテロリズムの脅威、また少年による猟奇的な殺人事件など、いわゆる「体感治安の悪化」(漠然とした社会不安)を背景として、再び「治安刑法」の拡大という右傾化の波が押し寄せた。治安刑法は、国家の秩序や安全を守ることを目的とするが、その特徴として、市民的・政治的権利との抵触を生じやすいこと、政治的予防主義に基づく未遂以前の前段階的行為類型の多用、そして構成要件の不明確性や過度な広範性などが指摘されている。
その最たる例が、2017年(平成29年)に「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律(組織的犯罪処罰法)」の一部改正として強行採決された「テロ等準備罪(共謀罪)」である。政府は、国際的な組織犯罪の防止に関する条約(TOC条約)の批准と、オリンピック開催に向けたテロ対策に不可欠であるとして本罪の導入を進めた。しかし、対象となる犯罪は277種類と広範にわたり、そこには窃盗や詐欺、森林窃盗や脱税といったテロ対策とはほぼ無縁の犯罪までが網羅されていた。
本罪の最大の問題点は、従来の未遂や予備よりもさらに手前の段階である「計画(共謀)」と「準備行為」を処罰の対象としている点にある。近代刑法は、「思想は税関を通過する」との法格言に象徴されるように、実害をもたらす具体的な法益侵害行為を処罰の対象とし、内心にとどまる意思を罰しないという行為主義を大原則としてきた。共謀罪は、この行為主義の観点から逸脱しており、内心や思想の処罰に直結する危険性が高い。また、構成要件における「準備行為」の内容が極めて曖昧であり、一般市民や労働組合、市民団体までもが捜査対象となる可能性があり、盗聴等を伴う監視社会を招来するとして、罪刑法定主義や自由主義的法秩序の観点から極めて厳しい批判にさらされた。国家の介入権限を前倒しし、市民の自由を萎縮させるこのような立法は、治安維持を至上命題とする右傾化的な社会統制の典型といえるだろう。
5. 処罰の早期化と厳罰化・重罰化の潮流
近年の刑事立法において右傾化的な側面として指摘されるもう一つの柱が、処罰の早期化(抽象的危険犯の増加)と、刑罰の厳罰化・重罰化である。 2000年代以降、社会のハイテク化やボーダレス化に伴い、個人の行動が甚大な被害を生じさせるポテンシャルを増大させたことから、「被害が発生してからでは遅い」という理由で、早い段階での刑罰権の介入を求める要請が強まった。例えば、2001年(平成13年)の刑法改正で新設された支払用カード電磁的記録不正作出準備罪や、2011年(平成23年)に新設されたコンピュータ・ウイルス(不正指令電磁的記録)の作成・提供・保管等に関する罪など、実害が生じる前の抽象的な危険の段階で処罰する規定が次々と設けられた。また、特殊開錠用具の所持の禁止等に関する法律など、行為の準備段階や所持を単独で罰する特別刑法も増加している。
またこれと並行して、重大犯罪に対する厳罰化・重罰化の立法が相次いだ。2004年(平成16年)および2005年の刑法改正により、有期懲役および有期禁錮の上限が従来の15年から20年に引き上げられ、併合罪加重等を行う場合の長期の上限も30年に引き上げられた。また、殺人罪の法定刑の下限が「懲役3年以上」から「懲役5年以上」に引き上げられ、傷害罪の法定刑の上限も「懲役10年以下」から「懲役15年以下」に引き上げられるなど、重大犯罪全般の厳罰化が図られた。さらに、2010年(平成22年)には、殺人罪や強盗致死罪などの重大犯罪について公訴時効が廃止された。
交通犯罪の領域でも厳罰化の傾向は顕著である。飲酒運転などによる悪質・危険な運転行為による死傷事故の多発を受け、2001年には刑法に「危険運転致死傷罪」が新設され、2007年には「自動車運転過失致死傷罪」が新設された(後にこれらは特別法である「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」に移行された)。性犯罪に関しても、2017年の改正で強姦罪が強制性交等罪へと改められ、非親告罪化されるとともに法定刑の下限が懲役3年から5年に引き上げられるなど、処罰範囲の拡大と厳罰化が行われている。これらは、犯罪撲滅という国家の断固たる意思を国民にアピールする政策優位の姿勢を示すものである。
6. 右傾化を支える社会意識と刑事政策の変容
これらの重罰化や治安立法の推進は、単に国家のトップダウンによるものだけではなく、現代社会に蔓延する「犯罪不安」やマジョリティの処罰感情、いわゆる大衆的司法の要求に裏打ちされている点が特徴である。アメリカにおける「法と秩序」を求める厳罰化傾向と同様に、日本でも「体感治安」の悪化や被害者の権利運動を背景として、刑事司法に対しより強い統制機能と重罰を求める方向にベクトルが向かっている。しかし、刑事政策を国民の素朴な処罰感情や道徳的直感に直結させることは、刑法の謙抑性や罪刑法定主義、責任主義といった近代法の原理を形骸化させる危険を孕んでいる。重罰化の底流には、犯罪の原因を社会的環境や構造的な問題に求める視点が失われ、もっぱら個人の「自己責任」として切り捨て、異質な他者や逸脱者を病理的な存在、あるいは異常な存在として社会から隔離・排除しようとする不寛容な意識が働いているとの指摘がある。その結果、刑法が「敵」を排除するための道具(敵・味方刑法)に変質していくことは、歴史が示す「右傾化(全体主義化)」の道であるといえる。 例えば、2001年の大阪池田小学校事件を契機として制定された「心神喪失者等医療観察法」においては、重大犯罪を犯した精神障害者に対して、責任無能力であっても「再犯のおそれ」があるとして強制的な治療・収容を命じることが可能となった。これは社会の安全と防衛を優先する治安的要請の表れであり、自由の拘束や人権侵害のリスクについて激しい議論を呼んだことは記憶に新しい。
7. 結語
刑事立法における「右傾化」とは、刑罰制度によって社会の安全を確保し、国家の治安を維持し、あるいは国民の処罰感情を満たすことを至上命題とし、刑法の「謙抑性」や「行為主義」「責任主義」といった自由主義的法秩序の基本原則を後退させる立法の動向であると要約することができる。
戦前の「改正刑法仮案」や戦後の「改正刑法草案」が示そうとした権威主義的な刑法観は、当時の学界・実務界の強い批判により退けられた。しかし現代においても、グローバルなテロの脅威や「危険社会」におけるリスク不安を背景として、「共謀罪(テロ等準備罪)」の創設や継続的な厳罰化、予防的・抽象的危険犯の拡大という形で、国家の刑罰権による介入は着実に強化されている。
刑事法は、もちろん犯罪から社会を防衛するという基本的な役割を持つが、それと同時に国家の刑罰権の濫用から市民の自由と人権を保障する「犯罪者のマグナカルタ」としての役割をも担っている。国民の処罰感情や治安維持の要請に安易に迎合するポピュリズム的な立法に対しては、罪刑法定主義と謙抑性の観点から、その必要性と比例性を常に批判的に検証し続けることが不可欠である。(了)
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