【番外編】「国旗損壊罪」は必要か

自民党案の内容
現在、自民党が検討を進めている「国旗損壊罪」とは、次のような内容である。
日本国旗(自己所有を含む)を「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」で公然と損壊する行為に加え、その状況を撮影した動画や画像をSNSなどに投稿し、不特定多数にさらす行為も処罰対象とする。
罰則は、現行刑法の外国国章損壊罪(刑法第92条)と同等で、「2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金刑」が想定されている。
ちなみに現在は、他人の国旗を損壊する行為は器物損壊罪(刑法261条)に当たり「3年以下の拘禁刑又は30万円以下の罰金若しくは科料」に処せられるので、この自民党案よりも重い(かりに自民党案が成立したとしても、他人の国旗を燃やしたりした場合は器物損壊罪も成立し、刑の上限は器物損壊罪の3年の拘禁刑となる)。
では、かりにこのような法案が国会で成立し施行された場合、私たちの国民生活はどのように変わるのだろうか。そして、それは日本という国の発展にとって有益なことなのだろうか。
表現の自由・思想信条の自由が萎縮
まず、国民生活に及ぼす最大で最も深刻な影響は、日本国憲法第21条が手厚く保障している「表現の自由」に対する萎縮効果の広がりである。国旗は、その国の政治体制はもとより、国民生活や国の歴史など、その国と国民の関係を象徴するものである。したがって、国旗を物理的に損壊したり改変したりする行為は、場面によっては確かに国民感情に刺激的であることもあるがあるが、他方では、時の政権や国のあり方に対する抗議や強烈な異議申し立ての意思を示す「象徴的表現」でもあり、民主主義社会において本来最も保護されるべき政治的言論の中核に位置づけられるべきものである。
自民党の骨子案は、憲法違反との批判をかわすために行為者の「侮辱する目的」などの内心の意図を要件から外し、外形的・客観的な行為で違法性を判断するとしている。しかしその代わりに、「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」という極めて曖昧で主観的な要件が盛り込まれている。しかしその「損壊」が、単なる不快な行為なのかどうかを客観的に線引きすることは不可能に近い。
例えば、日の丸の赤の部分を黒に塗ったり、その部分をくり抜いたりした場合は、「人に著しく不快または嫌悪の情を催させる」ことになるのだろうか。そもそも「日の丸」のデザインは政令で細かく規定されているが、その条件に明らかに外れる旗は「国旗」なのだろうか。お子様ランチに刺さっている日の丸は「国旗」なのか、日の丸弁当はどうなのか。お子様ランチに刺さっている日の丸に、「日本、サイテー」とか言いながらケチャップをかけて汚している動画をYouTubeにアップしたら処罰されるのだろうか。
この点は、まさに憲法学者の志田陽子が危惧するように、例えば芸術作品の中に国旗を批判的なモチーフとして取り入れた場合、それが刑事罰の対象になる可能性が常に付きまとうことになる。一般市民やイベントなどの主催者は、「違法ではないか」という外部からの糾弾を恐れ、国旗に関連する一切の表現を自粛するようになるだろう。さらに、この萎縮効果は政治活動や芸術の世界にとどまらず、漫画やアニメといったポップカルチャーにまで波及するだろう。
しかも自民党案は、損壊の状況を撮影した動画や画像などのSNSへの投稿までも処罰対象としている。これは、国民の日常生活を国家の監視下に置くことに等しい。 処罰法が存在することで、国民は自己検閲を強いられることになる。また、法的な根拠が与えられることで、自分とは異なる思想を持つ者を「不快だ」と通報し合う、市民同士の相互監視も激しくなるだろう。これは、多様な価値観が交錯し活発な議論が行われる自由な社会から、息苦しい監視社会への転落を意味する。
また、国民生活における内面的な自由への不当な介入も見過ごすことはできない。日本国憲法第19条は思想・良心の自由を絶対的に保障している。 国旗に対する愛着や敬意は、国民一人ひとりの自由な感情に基づくべきものであり、刑罰という国家の強制力をもって要求されるべき性質のものではない。 憲法学者の駒村圭吾が指摘するように、国旗損壊罪は「国旗に敬意を表したくない人にまで敬意を表することを強制する法律」であり、明確に憲法19条に抵触する。
国のためになるのか
このような国民の自由を犠牲にしてまで成立させる法案は、国家の発展にとって良いことなのだろうか。
国旗を燃やす、破るなどの行為によって生じる具体的な実害に対しては、わが国にはすでに十分な法規定が存在する。他人の所有する国旗を傷つければ器物損壊罪や窃盗罪に問われ、公道で火を放てば道路交通法などが適用される。選挙のポスターや旗を損壊すれば公職選挙法違反であり、業務を妨害すれば威力業務妨害罪で処罰できる。
刑罰は国家権力の最も強力な行使であり「最後の手段」として必要最小限に行使されるべきであるという刑法の謙抑性の原則に照らせば、既存法で対処可能な実害を超えて、わざわざ「国旗の象徴的価値を損なった」という行為自体を重罰化することには、合理的な立法事実が全く存在しない。
推進派は、「外国国章損壊罪(刑法92条)があるのに自国の国旗損壊罪がないのは不均衡だ」と主張し、法改正の強い根拠としている。 しかし、外国国章損壊罪が守ろうとしているもの(保護法益)は、「他国を侮辱することで国際紛争の火種となり、外交問題に発展する危険性を防ぐ」という国家の対外的・国際関係的安全なのである。自国国民が自国内で自国旗を損壊したとしても、それが他国との外交問題や国際緊張に発展することは論理的にあり得ない。 守るべき法益が根本的に異なるものを同列に並べ、「バランスをとるべきだ」として自国民の基本的人権を制限しようとする論理は、まったくの詭弁である。
自民党の法案骨子案は、「意図や目的を問わない」として政治的抗議と単なる破壊行為の区別すら曖昧にし、SNSを通じた映像送信にまで広範に処罰の網をかけようとするものである。これは、比例原則を無視した網羅的で過剰な規制に他ならない。それは「ハエを殺すのに大砲を使う」ようなもので、一部の不快な表現を封じ込めるために刑罰という砲弾を撃ち込むことは、家(民主主義という構造)そのものを破壊する非理性的で過剰な対応でしかない。
反論としてよく持ち出されるのが、刑法第188条の礼拝所不敬罪や第189条の墳墓発掘罪である。前者は、神社や寺院、墓所などで「公然と不敬な行為」をした場合に最高6月の拘禁刑に処し、後者は、「墳墓を発掘」する行為を最高2年の拘禁刑で処罰している。これらの条文の存在意義と考え方は今では問い直されているが、これらの条文が保護するものは、端的に言って国民の宗教的感情や嫌悪感、不快感である。推進派は、国旗損壊という行為もこれらの犯罪と同一だというわけである。しかし、ヘイトクライムとして処罰されるモスク襲撃などは別として、礼拝所不敬や墳墓発掘が政治的あるいは芸術的行為として行われることはまず考えられない。国旗損壊行為とこれらは、この点で決定的に異なるのである。
むすび―国の発展とは―
国家の真の発展は、単一の価値観による統制や、異論の排除からは決して生まれない。多様な意見や、時には耳の痛い強烈な批判、社会を根底から問い直すような過激な芸術表現をも包摂し、自由な議論を通じて社会の課題を自律的に解決していく。このような成熟した民主主義のプロセスのなかにこそ、真の発展の原動力がある。
国旗に対する「敬意」は、刑罰による威嚇によって国民に強制されるものでは決してない。国民一人ひとりが自由に生き、他者の権利が守られ、多様性が尊重される生きやすい社会を実感できたとき、「日本に生まれてきて良かった」と、自ずと国家に対する誇りや愛着が醸成されるのである。
自民党が目指す国旗損壊罪の制定は、社会の多数派の感情に迎合して少数派の表現を封じ込め、国民を分断するだけの極めて危険な政治的道具となる。力強くて豊かな日本の未来と発展を願うのであれば、このような違憲の疑いが強い法案は直ちに撤回されるべきである。(了)
【参考】(拙稿)
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