現代社会におけるギャンブルの問題性
はじめに
現代社会におけるギャンブルの問題性は、単なる個人の「道徳」や「意志の弱さ」の次元を超え、高度に産業化された「搾取のシステム」へと変貌している点にある。
現代のギャンブル問題を読み解く上で最も重要なキーワードは、「大脳辺縁系資本主義」(Limbic Capitalism)」という概念である。これは、歴史学者デヴィッド・T・コートライトが提唱した概念であり、現代の企業が、快楽や動機づけ、生存本能をつかさどる大脳の古い部位(辺縁系)を標的にし、過剰消費や依存を意図的に作り出すことで収益を上げる経済システムを指す。
かつてギャンブルは、偶然性の遊びであった。しかし、産業革命以降、特にデジタル技術の進化とともに、それは「マックギャンブリング」(McGambling)と呼ばれる機械的な搾取システムへと進化した。企業は脳科学の知見を悪用し、大脳におけるドーパミン報酬系を刺激するよう巧妙に設計された商品を提供する。そこでは、利用者が「好き」(liking)で楽しんでいる段階を超え、もはや楽しんではいないのに病的に「欲する」(wanting)状態、すなわち「設計された欲求の暴走」が引き起こされる。
このビジネスモデルの冷徹さは、依存症に陥った一部の「ヘビーユーザー」が業界全体の収益を支える構造にある点にある。つまり、現代のギャンブル産業は、顧客を破滅的な依存状態に追い込むことによって、その利益を最大化しているのである。
また、テクノロジーの進化もギャンブルの脅威を劇的に拡大させている。かつてラスベガスなどの物理的な場所に限定されていたギャンブルは、インターネットとスマートフォンの結合により、時間と場所の制約を完全に突破した。
現代人は24時間365日、誰の目にも触れずに、スマートフォンからカジノにアクセスできる。さらに恐ろしいのは、デジタルプラットフォームが個人の行動データを収集・分析し、利用者がギャンブルから離れようとすると、絶妙なタイミングで利用者の気を引く「通知」や「ボーナス」を提示し、射幸心を再点火させる仕組みが構築されていることである。
「自己責任」という欺瞞
ギャンブル依存症に陥った際、社会はしばしば個人の「意志の弱さ」を責める。しかし、この「自己責任論」は、仕掛けられた罠を見過ごす暴論であると言わざるを得ない。
心理学における「自我消耗」(Ego Depletion)の概念が示すように、人の意志力は無限ではなく、筋肉のように使えば消耗する「有限な資源」である。現代社会は、消費者の意志力を枯渇させる誘惑で溢れており、企業はアクセルを極限まで踏ませようとする。その結果として事故(依存症)が起きた時だけ、個人の「ブレーキ操作のミス」として断罪するのはダブルバインドであり、あまりにも不条理である。
依存症は「罪」でも「不治の病」でもなく、「誤った学習」が引き起こした病である。生存に不要な行動を不可欠なものと脳が誤認してしまっている状態に対し、処罰や社会的制裁を与えることは、ストレスを高めて脳機能をさらに低下させ、回復を妨げる逆効果にしかならない。
法制度の矛盾と国家の責任
法制度の対応も遅れている。日本の刑法における賭博罪は明治時代に制定されたものであり、国境を越えるインターネットギャンブルには十分に対応できていない。現状では、海外の業者が運営するサイトに日本国内からアクセスした利用者が、一種の「犯罪者」として扱われる可能性がある一方で、運営側は海外に拠点を置くため規制の手が届きにくい。
そもそも、オンラインカジノの利用者は、巧妙なアルゴリズムによって金をむしり取られた「被害者」としての側面が強い。にもかかわらず、利用者を「犯罪者」として追い込むことは、問題の本質を見誤っていると言える。
さらに、国家自身もこの構造的な矛盾に加担している側面がある。アメリカでは、かつて道徳的観点からギャンブルを禁止していたが、大恐慌や戦争による財政難を背景に、資金調達手段として宝くじやカジノを合法化してきた歴史がある。政府はギャンブルから莫大な税収を得ていながら、そこから生じる依存症対策には極めて消極的であり、その態度はあまりにも無責任である。
まとめ
現代におけるギャンブルの問題性とは、それが個人の嗜好の範囲を超え、脳の生理学的脆弱性を突いた「略奪的なビジネスシステム」として確立されている点にある。
我々は、「依存するのは本人が悪い」という安易な自己責任論を捨てなければならない。求められているのは、依存症者を「犯罪者」として裁くことではなく、「誤った学習」からの回復を支援する体制の構築であり、何より、人々の脳をハッキングして利益を貪る産業構造そのものへの規制と監視なのである。(了)
【参考】すべてAddiction Reportに発表した論考です。
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